『ジャクソン・ポロック展』

ジャクソン・ポロック展に行ってきた。ポロックについてはこの展覧会が開催されることで何ヶ月前かに知ったくらい無知だったのだけど、行くからにはそれなりに準備してから行きたいと思いここ一ヶ月くらいの間ちょっとずつポロックについて勉強していた。ただ実際鑑賞して見た結果、そうして鑑賞前に抱いていたイメージは一新されることとなった。
優れた芸術は、それにまつわる言葉を百万語集めたよりも多くの情報が凝縮されているのだな、と改めて感じる。やはり絵画は実物を見ないことには始まらないのだ。

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ポーリングという技術を使い、キャンバス一面を垂らした絵の具で覆ってしまうオールオーバーと呼ばれる作風で絵画史に革命をもたらしたポロックだが、そこに至るまでの過程も面白かった。
ピカソやマティスやミロ、シュルレアリスムの自動筆記やインディアンの砂絵など、様々なところから影響を受けながらも、それらを昇華させて絵画の極地に到ったポロックの作品は、そのまま現代絵画の歩みでもある。


そしてもちろん今回の展覧会の目玉、『インディアンレッドの地の壁画』は圧巻。
事前に写真などで見ていたものの、実際に目の前にしてその迫力に圧倒された。そしてしばらく眺めていると、それまでもっていたポロック観を大きく修正しなければならないことに気づいた。
それまでもってたポロック観というのは、それがアクション・ペインティングと呼ばれているように、旧来の絵画がもっていた具象的ないし抽象的な描かれるべき対象物を完全に追い出し、純粋に描くという行為のみをキャンバスに叩きつけたという点が革命的だったというものだ。


だが作品と対峙して感じたのは、画家のエネルギーというよりは画具のエネルギーだった。キャンバスでアクションしているのは、ポロックではなく絵の具なのだ。
ポロックのエネルギーはむしろ、ややもすれば画具が暴走してただの絵の具が殴りつけられただけの、作品とも呼べないようなものになりそうなところを、画具のもつ奔放なエネルギーの手綱を握って、ぎりぎりのバランスで絵画作品に成り立たせるために注がれている。それはほとんど奇跡的とも言っていいほどだ。

画面のなかを渦巻きながら、外へと拡散していく白。
縦や横に長く走り、画面の中に強固な構造を与える黒。
目立たないながらも白と黒をつなぎとめる接着剤のような働きをもったグレー。
単調になりそうな画面にリズムをもたらす黄色。
そしてそれらすべてを地として支えるインディアンレッド。
それぞれが個性を発揮しながらも、お互いを引き立て合いながらどれひとつとして欠けてはならない存在として機能している。
色そのものがもっている力に感動するとともに、それらをコントロールする画家の精妙な力量に深い感慨を覚えるのだ。


そうして頂点を極めたポロックの作風だが、完成された作風を生涯続けるわけではなかった。常に新しい表現を模索せずにはいられない前衛作家の性だろうか、ブラックポーリングと呼ばれる新たな作風に転じる。だが一度消え去った具象的な表現が再び現れたその作風は、退行として人々から批判されてしまう。そしてポロック自身もあまり納得のいってなかったようだ。うまく描くことができなくなった苦悩からアルコール中毒におちいり、そのまま交通事故で死んでしまうのである。

画家人生において、ピカソを超えることを目標にして、実際にピカソですらたどり着かなかった新たな境地に達したポロック
だが何度も作風を変えながらもそれぞれの場所で新境地を確立してきた天才ピカソに比べて、ついに新しい作風を確立するに至らなかった彼は、結局人生においてはピカソを超えることができなかったと言えるかもしれない。
もちろんそれは人類史上最強レベルの天才と比べてしまうからであって、ポロックが偉大であることには変わりない。


公式サイト:生誕100年 ジャクソン・ポロック展


アメリカの二つの宗教『宇宙人ポール』

「宇宙人」ポールとあるが、実際のところイギリス人から見た「アメリカ人」についての映画だ。

オタクの祭典コミコンに参加するためイギリスからはるばるやってきた二人組、グレアムとクライブは、キャンピングカーを走らせUFOスポットを巡るその道中、ポールと名乗る宇宙人と出会う。「北へ向かえ」という、英語がペラペラでマリファナも吸う、この人間臭い宇宙人に従い車を走らせる彼ら。ポールは謎の組織に追われているようだが――というお話。


UFOや宇宙人は、歴史をもたないアメリカにとっての新しい神話のようなもので、アメリカの映画やドラマ、小説なんかで頻繁に題材として使われている。

たいていの場合、宇宙人は、人間の理解を超えた存在として描かれることが多いのだけど、この映画では超常的存在としてだけではなくアメリカ人としても描かれているのがユニーク。

酒やマリファナやピスタチオを好み、アメリカ文化に精通しているポールは、宇宙人の外見をしているものの中身はアメリカ人そのもの。

途中、グレアムたちがホテルの従業員に「エイリアンを信じるか?」と聞き、従業員が「私はエイリアン(外国人)です」と答えるシーンがあるが、宇宙人とアメリカ人両方の性質をもつポールはイギリス人であるグレアムたちにとって、エイリアンであり外国人でもあるのだ。天からやってきながらも地上の存在でもあるポールは、道中グレアムたちに奇跡を見せたりする様子からもまるでキリストのようでもある。人間の理解を超えたテクノロジーをもつ宇宙人は科学テクノロジーや合理的精神を象徴する存在なのだ。


さて、アメリカが新しい国とはいえ、全くの無からできたわけではない。 ヨーロッパから移民がやってきてできた国だ。

そしてそのもう一つのルーツを体現する人物こそ、途中から旅に加わるルースだろう。キリスト教原理主義者であり進化論を認めない偏狭的な女性、というようにかなり偏って描かれているものの、彼女こそアメリカ人を形成するもう一つの価値観の代表的人物だ。

彼女が代表するキリスト教信仰という西洋由来のアイデンティティと、ポールが代表する合理的精神という新しい国アメリカとしてのアイデンティティ。この二つが映画の中でせめぎ合っている。

しかし映画の中盤、この2人の争いは意外な形で終息してしまう。

進化論を信じることができず、ヒステリックにわめき散らし唐突にアメイジング・グレイスを歌いだすルースに対し、ポールは手をかざして宇宙のデータを一瞬で見せることで、ルースを強引に「改宗」させてしまう。このときポールが「真実を見せる」と言っていることも重要だ。裏を返せばルースの信じていることは嘘っぱちであると宣言しているのだ。


ではキリスト教信仰は、間違った知識として唾棄すべきものなんだろうか。しかしそう簡単なものではないことも、ルースは示している。

「改宗」のあと、ルースの人格は一変してしまう。信仰を捨て、下品な言葉を連発し、グレアムに迫る。確かにそれはそれまで感情が抑圧されていた反動かもしれないが、それでもとてもじゃないが統合のとれた人格とは言いがたい、かなりアンバランスな人間だ。

そして「改宗」によって考え方が一変したルースを、彼女のキリスト教原理主義者としての価値観の大本である父親は、映画の最後までルースを執拗に追いかけてくる。どうやら簡単には「改宗」することはできないらしい。

実はアメリカ人にとってキリスト教は倫理観の拠り所なのだ。合理主義的価値観は倫理足りえない。それはポールを見れば明らかだろう。

タバコもマリファナもやるポール。彼にとって楽しいことなら自身の行動を規制することなど何もない。彼のそのような考え方が最もよく表れているのが鳥を生き返らせるシーンだ。
ポールはグレアムたちの前で死んだ鳥を生き返らせる奇跡を見せるが、生き返らせたその直後なんとその鳥を食べてしまう。彼が鳥を生き返らせたのは、命を尊重するためではなく、グレアムたちに神秘的な体験をさせるためでもなく、ただ単に食べたいからだったのだ。生き返らせた方が美味しいから。

そしてそれに驚くグレアムたち。グレアムの常識とポールの常識の間に生まれるギャップが、ここではギャグになっている。

功利主義的倫理観の行き着く先は、映画『ウォール街』のゴードン・ゲッコーのような人物だろう。「強欲は善だ」と言い切り、違法な行為に手を染めても、それすらも自由競争の名の下に正当化してしまう。だがそうした態度が最終的にもたらすものは深刻な悲劇だ。

自由の象徴である銃が年間万単位の死亡者をもたらし、いき過ぎた利益の追求が金融危機を招いたことからも、それは明らかだろう。


合理的価値観はアメリカに経済大国としての発展をもたらしたが、倫理までは保証できなかった。しかしその倫理を保証しているキリスト教信仰は、合理的価値観とは相容れない。

進化論を教えることについてアメリカでいまだにヒステリックな言い争いが起こっているのも、アメリカ人の中にアイデンティティとして刷り込まれているこの二つの価値観が対立しているからではないか。

アメリカには未だに人間や世界を神が作ったと信じ、進化論やビッグバン理論を認めない人たちがいると聞く。確かにノーベル賞を多く輩出し、人間を月まで送った、世界でも有数の科学立国としては、彼らをルースのように強引に目覚めさせたいという気持ちがあるのだろう。しかし一方で彼らは、自分たちの価値観の基盤を失うことを恐れてもいる。

脚本と主演を担当したイギリス人コメディアン、サイモン・ペッグニック・フロストはこの映画で、そうしたアメリカ人のアンビバレンツな感情をスクリーンへと見事に活写してみせた。

映画は10年を映す鏡たりえただろうか『ゼロ年代アメリカ映画100』

一つ一つ見てもわからないが、集めてみると見えてくるものがある。
本書はゼロ年代のアメリカ映画の中から代表的なものを100本選ぶことによって、ゼロ年代のアメリカそのものを映し出そうという試みだ。
集められたそれぞれの映画評を読むのもいいけれど、その合間に挟まれるコラムが面白い。


映画評論家の町山智浩はハリウッド資本と賞レースの裏事情を語る。
実はアカデミー会員には俳優が最も多く、次に脚本家が多いのだそうだ。だから斬新な脚本の映画はアカデミー賞を取りやすいし、またCGでできたキャラクターが主人公を演じた「アバター」はアカデミー賞に選ばれなかったとのこと。


スターとして活躍する俳優たちの傾向について分析した、大森さわこ氏のコラムも興味深い。
90年代を代表するスターであるケビン・コスナーハリソン・フォードトム・クルーズなどは、警察や諜報部員のような役柄を通じて、アメリカの正義や良心を代弁していた。

ところがゼロ年代に活躍したブラッド・ピット、ジョニーデップ、レオナルド・ディカプリオなどは、好んでダークな役柄を演じるようになった。それには〈9.11〉の影響もあるだろう。イラク戦争など経験して以降アメリカは、90年代のような単純な正義を掲げることができなくなってしまった。そうして出てきたのが彼らブラピやジョニデなどのダークな面も演じることのできる俳優たちだったのだ。

しかしそのせいでハリウッド映画から以前もっていたわかりやすさが失われて、それがゼロ年代のハリウッド映画の日本での興行的な不振につながったのではないかとの指摘だ。


もちろん本書は、ゼロ年代アメリカを代表する映画や映画監督の作品からチョイスしているので単に映画ガイドとして読んでもいい。載っているのはいずれ劣らぬ秀作ぞろいだ。


ゼロ年代アメリカ映画100
町山智浩 柳下毅一郎 大森さわこ 今野雄二 黒沢清 大場正明 滝本誠 馬場広信 添野知生 渡部幻 佐野亨 石澤治信 鎌田絢也 夏目深雪 芝山幹郎 中原昌也
芸術新聞社
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DIC川村記念美術館に行ってきた

DIC川村記念美術館

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昨日は天気がよかったので千葉県佐倉市にある川村記念美術館に行ってきた。
電車に揺られて1時間半。さらに送迎バスで進むこと20分。バスの中で他の乗客たちに連帯感を(勝手に)抱きながら、コンビニで買ったおにぎりを頬張ったり、竹林なんて初めて見るなあと思ったりしてるうちに美術館に到着した。
実は以前からここにあるマーク・ロスコの部屋に行きたかったのだ。


マーク・ロスコについては以前から惹かれるものがあったのでよく本やネットで作品を見ていた。でもやっぱりロスコの絵は実物を鑑賞してこそ。だって実物は幅4メートルを超す巨大な作品なんだから。そもそも作品の飾ってある空間ごと鑑賞することを狙って描かれたものなんだから。

で、見てきたわけだがこれはもちろん予想通り素晴らしいものだった。
ロスコの絵を見ていると、理性を飛び越えて直接感情に作用してくるように感じる。というかそもそも「見るもの」と「見られるもの」という近代以前の絵画にあった前提がなくなっていて、見るというより作品と一体になると言ったほうがいいかもしれない。


とりあえず目的は達成されたのだけど、そのあとに鑑賞したフランク・ステラの作品群にはもっと圧倒された。なんでも川村記念美術館フランク・ステラの世界的なコレクションでも有名なのだとか。知らんかった。線や形や色が、そのエネルギーの赴くままにキャンパスを超えて描かれている作品群にとにかく打ちのめされて、ステラの作品ばかり何度もぐるぐると見て回った。2度目に来るときはこちらをメインにしてもいい。


そしてさらにその後見た企画展も良かった。この展覧会を企画した人はとてもセンスがいい。
内容は日本で活躍する現代美術作家7人を紹介するというものだったのだけど、たぶんそれだけなら見ようとは思わなかっただろうな。「抽象と形態」と題してこの7人とともに彼らに影響を与えたピカソやモネやブラックら西洋絵画の巨匠たちをところどころに配置して、ポスターにも7人の名前と並列して名前を並べている。巨匠の作品があるとなれば見てみようかなと思うのがミーハーな人間の心情というもの。だがこれが思わぬ収穫だった。

現代美術というと身構えてしまうけれど、内容は結構わかりやすいものだったと思う。
特にポスターにも描かれていた五木田智央という人の作品には驚いた。会場に入ると一番最初に目にするところに置かれたその巨大な絵は、遠くからだと顔をえぐられたような女性が描かれた写実的でショッキングな絵に見えるんだけども、近寄るとむらのある絵の具でテキトーにべたっと塗ったようにしか見えないのだ。何度も近づいたり遠ざかったりして、ゲシュタルトが崩壊する瞬間を体験するのが楽しい。

赤塚祐二という人の作品もそんな絵だった。近くで見るとなにやら形のわからない抽象的なものに見えるけど、離れて見るとふわっと全体像がはっきりしてくる。なるほど確かに記憶というのはそんなものかもしれない。全体像ははっきりとした確信があるのに、細部まで思い出そうとすると全然覚えていないことが多い。


というわけでロスコを見るつもりで全部楽しんでしまったのだが、とにかくこの川村記念美術館、一度は訪れてみる価値がある。レンブラントルノワールやピカソやブラックなどメジャーな画家の作品も多いし、ロスコやステラやニューマン、マレーヴィチアルバースなど抽象画の巨匠たちのコレクションがこれだけ一緒に見れるのはすごい。(しかもロスコやニューマンはそれぞれに特別な部屋まで設けられている!)コレクションの質が非常に高いのだ。アート好きの人たちからの評価が高いのもうなずける。

『デラシネマ(1)〜(4)』

連載1回目のときに読んで、なんか面白そうなのが始まったなと思ったのだけど、それきり忘れてしまっていた。

町山智浩さんが最新刊の帯を書いてるってのをブログで告知していたのを見て、ああそう言えばあったなあと思いだして買おうとしたが、なぜか最新刊が売ってない。Amazonでは品切れ。探せども探せどもどこにも売ってない。結局職場の近くの小さな本屋に売ってたのを見つけてようやく読むことができた。

昭和28年。黄金時代の日本映画界で底辺からてっぺんを目指す2人の男がいた。日映撮影所に所属する大部屋俳優の宮藤武晴と助監督の風間俊一郎。撮影所の伝統と慣習に阻まれながらも、2人は「作り物」ではない「リアル」な映画づくりを目指す!

「リアルな映画」という理念を掲げ映画界の旧態依然とした体制に立ち向かう主人公たち。まだ下っ端である2人がどんどん頭角を見せてくる展開は王道であるがやはり楽しい。

今ちょうど政界でも大阪市長が改革を断行して物議を醸しているが、何かをするたびにメディアのバッシングを受けており必ずしも歓迎されているわけではない。古いものを壊そうとする若者はいつの時代も大人たちに疎まれるものだ。 

デラシネマ(1) (モーニング KC) デラシネマ(2) (モーニングKC) デラシネマ(3) (モーニングKC) デラシネマ(4) (モーニング KC)

愚か者がヒーローの夢をみる『ジョニー・イングリッシュ 気休めの報酬』

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Mr.ビーンのローワン・アトキンソン主演のスパイ・コメディ。タイトルからして007のパロディだが、単なるパロディやギャグに終始することなく、スパイ映画としてもきちんと成立しているところが魅力。

パロディだからといってふざけているわけではなく、キャスティングの顔ぶれやスケールの大きさ、オープニングからエンドロールに至るまで007の新作と言われても遜色ない本格的なスパイ映画に仕上がっている。ただしジョニー・イングリッシュを除いては。伝統的なスパイ映画の世界観にMr.ビーンを放り込んだだけで、こうも爆笑コメディに変わってしまうとは。

 

諜報機関MI7のエースだったのも今は昔。モザンピークでの任務でヘマをしたジョニー・イングリッシュはチベットの僧院で失意の底にあった。そこに祖国からのミッションの要請が下る。目的は中国首相の暗殺の阻止。トラウマとなったモザンピークでの無残な失態から周囲の信頼と自信を取り戻すべく彼は動き出す。

しかしそんな彼に追い打ちをかけるように、情報提供者をあっさり目の前で殺され暗殺者には逃げられ秘密兵器を発動するための鍵は奪われ、と次々に失態をやらかす。まさにどんなミッションもインポッシブルにする男。だがそうして暗殺者の正体を追っていくうちに、MI7内に黒幕がいるという情報を手にする。

その情報をもとに、黒幕の正体についてMI7のエースであるサイモンに相談する。彼こそはイングリッシュにとってジェームズ・ボンドのような究極の憧れ。ヘマを繰り返す自分にとっての最高の理想像だ。実はサイモンが黒幕なのだが。

相棒の新人スパイであるタッカーにサイモンが黒幕であることを指摘されるも、その事実を認めようとしないイングリッシュ。果たしてイングリッシュはサイモンを乗り越え、真のヒーローになることができるのか――

というわけでこのサイモンという人物はプロット上非常に重要な役割をもっているのであるが、どうにもこのキャラクターが薄っぺらい。組織を裏切るにもかかわらずその動機が語られず、またイングリッシュが憧れるような優れた人物であるという描写もない。サイモンのキャラクターの掘り下げ不足は少しもったいないところだ。

 

とはいえそんなことが気にならないくらい映画は面白い。ローワン・アトキンソンは見ているだけでニヤニヤしてしまうし、緊張感の全くない追跡シーンや、カーチェイスならぬホイールチェアチェイス(ゴロが悪いな)、自由が利かない右手を必死に左手で止める両手の攻防、とあまりにも馬鹿馬鹿しすぎるアクションシーンの連続に笑いは絶えない。

映画の最後に少し長めのおまけ映像があるからエンドロールが流れてもすぐに席をたってはいけないぞ。

『ふうらい姉妹(1)(2)』

美人でありながらあまりにも残念な思考回路をもつ姉と、これまた残念な小学生の妹とのやり取りを描いた四コマギャグマンガ

1巻では主に妹とのやり取りに終始していたが、2巻ではその世界を広げて周囲の人たち相手に姉妹がボケをかます。

破壊力のあるボケをかます姉のキャラもいいが、単なるツッコミ役に収まらない妹のキャラ設定が面白い。ボケ&ツッコミで進む四コママンガだと単調になりやすいが、ときにツッコミときに姉に同調してWボケをかます妹がまた愛らしい。

ちなみに作者も姉妹のユニットなのだとか。さすがにマンガのように社会性のない姉妹ということはないだろうが、日頃からふうらい姉妹のようなやり取りをするのだろうか。常にネタ切れの不安がつきまとうギャグマンガだが、きっちり四コマ目で落とす高密度のギャグが維持できるのは姉妹二人でアイデア出しができるユニットの強み。

その破壊力から以前2chまとめブログやTwitter画像が出回り話題になっていたが、そのときはAmazonで品切れを起こして手に入らなかった。

 

ふうらい姉妹 第1巻 (ビームコミックス) ふうらい姉妹 第2巻 (ビームコミックス)