アメリカの二つの宗教『宇宙人ポール』

「宇宙人」ポールとあるが、実際のところイギリス人から見た「アメリカ人」についての映画だ。

オタクの祭典コミコンに参加するためイギリスからはるばるやってきた二人組、グレアムとクライブは、キャンピングカーを走らせUFOスポットを巡るその道中、ポールと名乗る宇宙人と出会う。「北へ向かえ」という、英語がペラペラでマリファナも吸う、この人間臭い宇宙人に従い車を走らせる彼ら。ポールは謎の組織に追われているようだが――というお話。


UFOや宇宙人は、歴史をもたないアメリカにとっての新しい神話のようなもので、アメリカの映画やドラマ、小説なんかで頻繁に題材として使われている。

たいていの場合、宇宙人は、人間の理解を超えた存在として描かれることが多いのだけど、この映画では超常的存在としてだけではなくアメリカ人としても描かれているのがユニーク。

酒やマリファナやピスタチオを好み、アメリカ文化に精通しているポールは、宇宙人の外見をしているものの中身はアメリカ人そのもの。

途中、グレアムたちがホテルの従業員に「エイリアンを信じるか?」と聞き、従業員が「私はエイリアン(外国人)です」と答えるシーンがあるが、宇宙人とアメリカ人両方の性質をもつポールはイギリス人であるグレアムたちにとって、エイリアンであり外国人でもあるのだ。天からやってきながらも地上の存在でもあるポールは、道中グレアムたちに奇跡を見せたりする様子からもまるでキリストのようでもある。人間の理解を超えたテクノロジーをもつ宇宙人は科学テクノロジーや合理的精神を象徴する存在なのだ。


さて、アメリカが新しい国とはいえ、全くの無からできたわけではない。 ヨーロッパから移民がやってきてできた国だ。

そしてそのもう一つのルーツを体現する人物こそ、途中から旅に加わるルースだろう。キリスト教原理主義者であり進化論を認めない偏狭的な女性、というようにかなり偏って描かれているものの、彼女こそアメリカ人を形成するもう一つの価値観の代表的人物だ。

彼女が代表するキリスト教信仰という西洋由来のアイデンティティと、ポールが代表する合理的精神という新しい国アメリカとしてのアイデンティティ。この二つが映画の中でせめぎ合っている。

しかし映画の中盤、この2人の争いは意外な形で終息してしまう。

進化論を信じることができず、ヒステリックにわめき散らし唐突にアメイジング・グレイスを歌いだすルースに対し、ポールは手をかざして宇宙のデータを一瞬で見せることで、ルースを強引に「改宗」させてしまう。このときポールが「真実を見せる」と言っていることも重要だ。裏を返せばルースの信じていることは嘘っぱちであると宣言しているのだ。


ではキリスト教信仰は、間違った知識として唾棄すべきものなんだろうか。しかしそう簡単なものではないことも、ルースは示している。

「改宗」のあと、ルースの人格は一変してしまう。信仰を捨て、下品な言葉を連発し、グレアムに迫る。確かにそれはそれまで感情が抑圧されていた反動かもしれないが、それでもとてもじゃないが統合のとれた人格とは言いがたい、かなりアンバランスな人間だ。

そして「改宗」によって考え方が一変したルースを、彼女のキリスト教原理主義者としての価値観の大本である父親は、映画の最後までルースを執拗に追いかけてくる。どうやら簡単には「改宗」することはできないらしい。

実はアメリカ人にとってキリスト教は倫理観の拠り所なのだ。合理主義的価値観は倫理足りえない。それはポールを見れば明らかだろう。

タバコもマリファナもやるポール。彼にとって楽しいことなら自身の行動を規制することなど何もない。彼のそのような考え方が最もよく表れているのが鳥を生き返らせるシーンだ。
ポールはグレアムたちの前で死んだ鳥を生き返らせる奇跡を見せるが、生き返らせたその直後なんとその鳥を食べてしまう。彼が鳥を生き返らせたのは、命を尊重するためではなく、グレアムたちに神秘的な体験をさせるためでもなく、ただ単に食べたいからだったのだ。生き返らせた方が美味しいから。

そしてそれに驚くグレアムたち。グレアムの常識とポールの常識の間に生まれるギャップが、ここではギャグになっている。

功利主義的倫理観の行き着く先は、映画『ウォール街』のゴードン・ゲッコーのような人物だろう。「強欲は善だ」と言い切り、違法な行為に手を染めても、それすらも自由競争の名の下に正当化してしまう。だがそうした態度が最終的にもたらすものは深刻な悲劇だ。

自由の象徴である銃が年間万単位の死亡者をもたらし、いき過ぎた利益の追求が金融危機を招いたことからも、それは明らかだろう。


合理的価値観はアメリカに経済大国としての発展をもたらしたが、倫理までは保証できなかった。しかしその倫理を保証しているキリスト教信仰は、合理的価値観とは相容れない。

進化論を教えることについてアメリカでいまだにヒステリックな言い争いが起こっているのも、アメリカ人の中にアイデンティティとして刷り込まれているこの二つの価値観が対立しているからではないか。

アメリカには未だに人間や世界を神が作ったと信じ、進化論やビッグバン理論を認めない人たちがいると聞く。確かにノーベル賞を多く輩出し、人間を月まで送った、世界でも有数の科学立国としては、彼らをルースのように強引に目覚めさせたいという気持ちがあるのだろう。しかし一方で彼らは、自分たちの価値観の基盤を失うことを恐れてもいる。

脚本と主演を担当したイギリス人コメディアン、サイモン・ペッグニック・フロストはこの映画で、そうしたアメリカ人のアンビバレンツな感情をスクリーンへと見事に活写してみせた。